第22回校長BLOG
経済学の役割、またはブラックエレファントへの備えについて
ここ10年程、私の愛読紙は日本経済新聞(日経)です。デジタルでは日経メディカルも眺めています。経済の目で世界を眺める、経済の目で教育を考えるということは、現在の国際社会では当たり前のことですが、私たち日本の教育界では特殊なことかもしれません。
全員が利己的な動機に基づいて行動すれば社会は自然にうまくいくという古典的な『見えない手』のドグマは、『教育の世界』ではとても受け入れられないことでしょう。また、『最大多数の最大幸福』などという目標も、人間を集団で捉えることなく一人の生徒を大事にするという教育界では異端の考えかもしれません。
しかし、メリットとデメリットで判断する経済的な考え方は、教育を現実的に考えるためには有効なこともあると思います。判断に迷うような課題については、あらゆる面で正しい解答は存在しない。現在の状況下で、未来の状況も考えつつ、比較的メリットの多そうなデメリットの少なそうな選択肢を選ぶしかないでしょう。決断して実行していく過程で、細かに評価して微調整をしていく。その過程を通じて、選んだ選択肢を結果的に最善のものに作り上げていくことこそが大事なことです。結論は、経済学的であるとともに優れて教育的だと思いませんか。
10月30日付の日経を読んで、二つの言葉に目が留まりました。ブラックスワンとブラックエレファントという言葉です。
ブラックスワンという言葉は前にも聴いたことがありました。白い白鳥の中での黒い白鳥(黒鳥?)ということで、確率は低いが当たると大変な損害を与える危険を指す言葉です。少し検討してみましょう。明日の天気予報で、①降水確率10%で降っても降水量は1mm未満の数値に表れない程度の少量という時、多くの人は傘を持っていかないのではないでしょうか。一方、②降水確率60%で降ったら土砂降りと言われたら多くの人は朝雨が降っていなくても傘を持っていくでしょう。③降水確率60%だが降っても降水量はほんの少しというなら降られても被害は小さいので傘を持っていくかの判断は分かれることでしょう。
問題は、④降水確率は10%だが、降ったら大変な豪雨になるという予報にどう対応するかです。これがブラックスワンです。人によって価値観によって判断は分かれるでしょう。この場合は傘を持っていくという少ないコストですから、慎重な人は傘を持っていくという判断になるかと思います。しかし、リスクを避けるために大きなコストがかかるときにはどう考えるべきでしょうか。
ブラックスワンを考えるときの一つの考え方として、下の式(のようなもの)があります。
起こったときの被害×起こる確率>予防策のコスト
こういった状態なら積極的に予防策を講じるべきだというのです。もちろん、それぞれの項目を数値化することは難しいでしょうから簡単に定量的に判断できるものではありません。ただ、こういった発想で考えると問題点が整理されてくると思います。現実の社会では、無制限にコストをかけることはできませんから、自ずからやれること、やるべきことは限定されるはずです。
さて、ブラックエレファントです。これは、起こる可能性が高く起こってしまったら大変な被害が生じることが分かっていながら、対応されていない危機のことです。例えば、地球温暖化への対応です。
現在では、地球温暖化は現実に進行しその影響が現れていること、原因は化石燃料の燃焼等による二酸化炭素をはじめとした温暖化ガスの排出量が増加したことだとわかっています。当然、対策としては、温暖化ガスの排出削減と発生したものの適切な処理ということになります。対策には大きなコストがかかりますが、明らかに『起こったときの被害×起こる確率>>予防策のコスト』です。この状況で対策をとらないことはまさにブラックエレファントを放置することです。
しかし、一部の国では、目先の利害を優先してこのブラックエレファントをあえて見ない、無いものと見做すことがあるようです。特にリスクを回避するために、今までかけてきた資源と努力を無駄にしなければならないケースなどでは、集団でブラックエレファントを無視する傾向が顕著です。ブラックエレファントへの対応には、議論の余地はありません。為すべきことを為すだけです(損切と言います)。判断の問題ではなく、実行力の問題であり勇気の問題です。
生徒の皆さんには、ブラックスワンには賢明に対応し、ブラックエレファントには毅然として対応できるようになってほしいと期待しています。
ということで、今月の1冊、『感染症はぼくらの社会をいかに変えてきたか』、小田中直樹著、日経BP。感染症は社会的な現象であり、同時に社会に大きな影響を与える現象です。この本は感染症と社会の相互作用を歴史的経済学的視点で捉えています。内容はとても分かりやすい。著者の望みと同様、この本が皆さんにとってポストコロナの時代を考えるきっかけとなることを願っています。
第21回校長BLOG
想像力の役割、または『アンという名の少女』について
今日は。さすがに彼岸が過ぎると涼しくなりました。家の野良朝顔(実生、たぶん小鳥の糞から生えた)が今になって元気に咲き誇っています。これから寒くなり乾燥してくると新型コロナウイルス感染症がどうなってくるのかが心配ではあります。
今回はテレビ番組の話から始めます。NHKで日曜日23時からカナダ制作の『アンという名の少女』というドラマをやっています。言わずと知れたカナダの作家ルーシー・モード・モンゴメリの『赤毛のアン』(『Anne of Green Gables』の村岡花子による訳)が原作です。
これがなかなか良かった。原作を生かしつつ現代風の味付けを微妙にしています。カナダのプリンスエドワード島の美しい自然とそこに生きる人々の生活を見事に再現しています。
そして、なんと言っても役者がいい。エイミーベス・マクナルティのアンは、誇り高くおしゃべり好きで想像力に富み明るいが、雀斑と赤毛とやせっぽっちであることを気にしているという既成のアンを演じるだけでなく、今までの辛い環境での体験から心に傷を負っていることを微妙に感じさせる演技が素晴らしい。アンを育てるカスバート兄妹の兄マシュー・カスバートを演じるR・H・トムソンは、内気で無口だが心優しく頑固な老人を好演、マリラに言い負かされて困ったような顔が秀逸です。何よりもマリラ・カスバートを演じるジェラルディン・ジェームズ、自他に厳しく甘い顔を見せてはいけないと思い込んではいるが、実は優しく思いやりの深い老女、厳しい顔を崩さないように意識しているが、時折、暖かい人間性がちらりと見えてしまうといった場面は素晴らしい演技です。
番組を気に入ったので、半世紀以上ぶりに原作が読みたくなりました。同居人が小学生の時に読んだという『赤毛のアン』を貸してもらい読んでみました。気になった「言葉」から感想を書きます。
1 マリラとマシュウの老兄妹のところに、農作業の手伝いのために男の孤児を引き取るはずがまちがって女の子が来てしまい戸惑います。マリラが「おいとけませんね。あの子がわたしらに、何の役にたつというんです?」と言うのに対してマシュウ「わしらのほうであの子に何か役にたつかもしれんよ」
ここでは、人を単なる労働力とみる立場から、想像力を働かせて、仲間、家族としてみて、何かをしてもらうという立場から何をしてあげられるかを考える立場に異化しています。飛躍してしまいますが、次の言葉を思いました。
『Ask not what your country can do for you; ask what you can do for your country. John F. Kennedy 』
2 お菓子作りでまちがって塗薬を混ぜてしまった失敗に対して、アンは
「マリラ、あすがまだ何ひとつ失敗をしない新しい日だと思うとうれしくない」「(わたしのいいところは)同じ間違いを二度と繰り返さないことよ」というのに対して、マリラに「いつも新しいのをしているんじゃ、それはなんのたしにもならないよ」と言われてしまう。マリラの巧まざるユーモアに微笑する場面です。
失敗した内容については反省し二度と繰り返さない。しかし、失敗したこと自体を悔やまず、来るべき未来を楽観的に考える。ビジネス(事業)そして人生に必要なのは、失敗の際の客観的な評価と反省・改善、その上での楽観的な姿勢です。自分にプライドを持ち、頭をあげてことにあたる。前向きに取り組んで結果として失敗したら素直に頭を下げる(日常的に俯いていると、それを下げた時にわかってもらえません)。そして、改善し、新たに計画する。PDCAサイクルまたはカナダにおけるプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神の体現、とまで言うのは大げさでしょうか。
3 アンが立派に成長し町の学校に合格して町を離れるときのマシュウのつぶやき
「あの子はわしらにとっては祝福だ。まったくあのスペンサーのおくさんはありがたいまちがいをしでかしてくれたものさ―運が良かったんだな。いやそんなものじゃない、神様のおぼしめしだ。あの子がわしらに入用だってことを神様はごらんになったからだと思うよ。」
1の想像が当たっていたとともに、うれしい違いが生じたのです。あの子の役に立つようにすることが、私たちの幸せにつながった。誰かにあるいは何かに貢献するということは、自分を生かし、自己実現につながる幸せなことだという信念が感じられます。
4 アンが、奨学金の権利を獲得し大学に進もうとするときにマシュウが亡くなり、年取ったマリラだけが残ってしまったときの決意。「あのときはアンは希望と喜びにあふれ、未来はバラ色にかがやいていた。そのときから、何年もたったかのような気がした。
しかしベッドにはいるころにはくちびるにはほほえみがうかび、心は平和になっていた。アンは自分のすべきことを見てとった。これを避けず、勇気を持って、それをむかえて一生の友としようと決心した―義務もそれに力のかぎりぶつかるときには友となるのである。」
アンは大学に行くことをとりあえず諦め、年老い衰えがみえるマリラとともにグリーンゲイブルズで暮らすことを決意します。苦しい選択であっても、現実を客観的にみて、自分の価値観に従い、自分が判断したことなら、前向きに生きていけるのです。アンは自分をかわいそうだなどとは思っていない。彼女の想像力は、与えられた状況の中で一所懸命しかし明るく生きていく自分の姿をとらえていたに違いありません。因みに、アンは後に大学進学も実現させます。
想像力とは、辛い時に明るい未来を思い、その未来に向かって日々の努力をする力のことをいいます。『赤毛のアン』は、人生という事業に対する姿勢の問題を明確に示しています。
ということで、今月の1冊、『赤毛のアン』、L・M・モンゴメリ著、文春文庫他多数。NHKドラマもあと5回ほどあるようです。こちらもお勧めです。
第20回校長BLOG
2学期始業式あいさつ元原稿または創造的幽閉について
おはようございます。この夏休みは、皆さんにとっても大変な夏休みだったと思います。
とりあえず、始業式に元気に登校出来て何よりです。
こんな夏休みは、皆さんの3倍以上の長さの私の人生でも初めてです。高校に出てくるのと、学校説明会で塾や中学校に出向いて講演をするのと、東京学芸大学の教職大学院で集中講義をする以外は、自宅のある町で燻っていました。休みを取った日は、5kmほど離れた多摩湖という人造湖に走っていき、森を散歩しました。木陰で本を読むと森で冷やされたそよ風がとても気持ち良かった。
自分の町をほとんど出なかったのに世界を語り、世界を変えた人にケーニヒスベルクのイマヌエル・カントがいます。純粋理性批判をはじめとする批判3部作により後世の哲学に大きな影響を与えた、西洋哲学におけるイノベーターといえます。「我々は何を知りうるか」「我々は何をなしうるか」「我々は何を欲しうるか」という人間学の根本的な問いに対応する三つの批判書「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」を書いたわけです。正直に言います。カントは読みましたが全く分かりませんでした。孔子でもデカルトでも加藤周一でも、誰でもいい加減に読んでも(もちろん現代日本語で)要はこんなことを言っているらしい、という程度は分かるものです。どうやら、カントは私にとって小林秀雄のような存在です。閑話休題。カントの言っていることで、断片的ではあるが頷けたのは次の3つ。
①互いに自由を妨げない範囲において、我が自由を拡張すること、これが自由の法則である。
自分の自由を拡張しなければ生きていく価値がない、他人の自由を妨げれば自由とは言えない。
②最も平安な、そして純粋な喜びの一つは、労働をした後の休息である。
一所懸命働いた(勉強した)後の休息は純粋な喜びであり、同時に働いた後には休息が必須である。
③Es ist Gut
死にゆく最後の言葉とのこと、「これでいいのだ!」大いなる自己満足?
カントは生まれた町を出ずに、世界を見通したようです。自らを物理的には幽閉したが精神は宇宙を天かける。そういえば、太陽系は星雲から生成したなどとも言っているようです。
出歩かずに自分に沈潜するのも悪くないのかもしれない。先に創造的休暇の話をしましたが、ある意味、創造的幽閉ということもあるのかもしれません。
要は、出歩けないときには、出歩けないということを理解し、受容し、その中でいかに充実した時を過ごすかということです。自分ではどうすることもできないことはあります。そのできないことに拘泥するのではなく、できることに精神を向け、小さくても確実な成果を収める。その営為の中にこそ、自由があるのだと思います。
このコロナの時代に高校生であったことを、良き契機としてください。やせ我慢ともいえるその心意気さえあれば、withコロナもそう暗いものではないでしょう。
今月の一冊、純粋理性批判とは言いません。『魔の山』、トーマス・マン著、新潮文庫 主人公は従兄弟をスイスの結核療養所に見舞うが、自身が結核に感染していることが分かり、7年間療養生活を送ります。その間、個性的な人々と交流し精神的に成長していく物語です。閉塞状況でいかに生きるかというヒントになるかもしれません。