第39回校長BLOG
金融教育について
相変わらず新型コロナウイルス感染症は収束せず、インフルエンザ流行も言われる中、なんとか学習旅行を成功させたいと思っています。私自身の感染予防策は、ワクチン接種と手洗い厳守、会話や密集する場でのマスク着用、多人数での会食の自粛です。皆さんもかわらず予防に努めてください。
さて、今日の話は金融教育についてです。
2022年4月から、高校において資産形成に関する授業が必修化されました。
要は、高校生の皆さんに、「金融リテラシー」、お金を通じて社会や経済、将来の働き方等、社会で生活するために必要な知識や判断力を身につけてもらおうというものです。今年(2022.4)から成年年齢が18歳に引き下げられ、クレジットカードやローン等の契約が18歳から可能になりました。つまり、3年生の多くは、経済活動の主体となったのです。
お金は、あえてお金では買えないものがあるなどと言わねばならないほど社会では大事なものです。皆さんは、あまりバイトなどしていないことでしょう。これは、学校が学校生活を第一にしてほしいと願っていることもありますし、多くのご家庭の方針でもあるかもしれません。皆さんの多くは保護者の方から小遣いをもらいそれを使う、言わば純粋消費者の立場でしょう。したがって、お金に関しては体験するより先に学ぶ必要があります。
国際社会も日本社会も、グローバル化と反グローバル化、民主主義と権威主義、リベラルと保守など、いろいろな立場がぶつかり合い分断しています。このような状況で、お金に関して「ぼーっと生きていると」
大変な危機に陥ります。例えば、一昔前までは、銀行預金は安全でかつそこそこの利潤を生む便利な資産運用でした。しかし、急激な変化の時代では、銀行自体の存続も絶対的なものではないし、ゼロ金利の状況でインフレ状態になると預金は事実上目減りしていきます。少なくともインフレ率に見合った利率が得られなければ、資産を維持することさえできなくなるわけです。
さらに、お金は流通してこそ社会の役に立ちます。資産が何らかの形で企業等に投資されることにより、資本主義経済は成り立っているのです。日本では、今までは、個人の資産の多くは銀行を通じて社会に流通していたのですが、今後は株や債券等の形で直接的に社会で役立つことが求められています。
もちろん、リスクはあります。投資した企業等が倒産したら大損ですし、そこまでいかなくとも業績が落ちれば株等の資産価値は下がります。しかし、日本社会がうまく回っていくためには個人の資産が市場に出てくることが必要ですし、個人の資産を守るためにも市場に出ることが必要になる時代が来たということです。リスクからただ逃げるだけではより大きなリスクを負うことにもなりかねない。リスクを適切にマネジメントすることが大事です。
そのために必要なことは、お金について学ぶことです。騙されて大事な財産を無くさないためにも学ぶ必要がありますし、社会変動で目減りしないためにも学ばなければなりません。実は、私も金融関係は苦手で何も知りません。わずかな資産はほとんど銀行預金です。しかし、そのごく一部で約20年前に投資信託を2種類買い、放っておいたところ、片方は買ったときの価値を下回ってはいますが途中での配当を合計すると買ったときの価格を上回りかつ20年間の物価上昇を上回っていました。もう一方は配当を都度に受け取らず再投資するタイプだったのですが、こちらは価格が買った時を大きく上回っていました。安定した資産運用を目指すためには、『長期』、『分散』、『積立』ということが大事だそうです。
私自身もお金について学んでいきます。皆さんも是非お金について興味を持ち、学んでください。家庭科や公民科では特にお金についての講義があります。実は、金融庁の金融教育教材作成には、本校の家庭科桒原先生と公民科長谷川先生が関わっていらっしゃいます。
さて、今月の1冊、『1ドル札の動きでわかる経済のしくみ』、ダーシーニ・デイヴィッド、かんき出版。テキサスで使われた1ドル紙幣が、中国、ナイジェリア、イラクと世界を巡る中で、中央銀行の働き、鉄道、油田とお金の関係が語られる。本校で特別講義をしてくださったあの池上彰さんが監訳者です。一読を。
第38回校長BLOG
2022.9.30 中庭集会
皆さん、今日は。
今年度は、入学式、遠足、体育祭、林間学校、辛夷祭と規模の制約はあっても実施してきました。やっと少しずつ日常が近づいてきた感がありました。しかし、ここにきて本校としては最悪の状況、感染者が急増して全校休業をせざるを得なくなりました。
私の判断に誤りがあったのではないか、油断があったのではないかと反省いたします。今回のような、学校での感染者の増加を完全に防ぐことは、実は簡単です。長期的な全校休業、ロックアウトしてしまえばよいのです。
もちろん、現実にはそうはいかない。なんとか学校活動を続けたい、対面での授業を行いたい、感染者が増加しない範囲で行事や部活動を行いたいと考えました。言わば、少し間違えばどちらかの谷に墜落する両側が切り立った細い尾根道をこわごわ進むような危機感がありました。
このような状況、このような背反する要請に応えなければならないことは、実は社会ではよくあることです。その際、一方的に判断したいという誘惑、all or nothingで自分の決定は正義であり反対者は悪だとしたいという欲求、と闘うことが大切です。反対者もそれぞれの事情があることを理解しなければいけない。大衆迎合のポピュリズムに陥ることなく、
The greatest happiness of the greatest number、最大多数の最大幸福を目指して調整し良き妥協をすることが必要です。生徒の皆さんも、将来の社会貢献のため、そして現在の行事遂行や部活動のために、この危機の時代のネゴシエーション(交渉)の技術と経験を積んでおきましょう。
今回の本の紹介。夏川草介、小学館、「臨床の砦」。新型コロナウイルス感染症と戦う人々が、どのような状況下で相矛盾する要請に応えようと苦戦したかをリアルに描いた小説です。私たち学校関係者より、ずっと厳しい細い尾根道を歩いてきた、そして今だに歩み続けている医師の記録です。こなれた文章で読みやすいので、テーマは深刻ですがすらすらと読め、めでたしめでたしの結論ではないのですが、読後感は爽やかなものがあります。一読を。
第37回校長BLOG
2学期始業式挨拶とその補遺としての『悪魔の辞典』
以下は、始業式での挨拶です。
おはようございます。校長の大野です。
久しぶり、元気でしたか。今日は、私が被った災難から得られた教訓を2つ。
私はこの夏休みにスズメバチに右手の人差し指を刺されました。ジョギング中に地面であおむけになってバタバタしているアブラセミを助けてやろうと拾い上げたら、セミの背中に縋り付いて狩りをしていたスズメバチに刺されたのです。セミの恩返しを期待して柄にもない仏心を出したのが失敗でした。
教訓1
善意の行為が必ずしも良い結果をもたらすとは限らない。
善意で動くとき、人は周囲・環境への注意がおろそかになります。「小さな親切、大きなお世話」にならぬよう気を付けたいものです。
さて、セミを拾い上げて助けたとき、指がちくっと痛み、セミは左側に飛び去り、同時にセミに匹敵する大きさの黄色と黒の縞模様が悠然と右に飛んでいきました。一瞬何が起こったのかわからなかったのですが、指の痛みとこの映像とから蜂に刺されたことがわかりました。そして、アブラゼミを狩りする大きさ強さと、人を刺して悠然と飛び去る様から、スズメバチに刺されたことがわかりました。ミツバチなら、針に返しがあり、一たび刺すと自分では針を抜くことができなくなるからです。無理に抜こうとするとお腹がちぎれて死んでしまうのです。つまりは、私はスズメバチの狩りを邪魔をしたため、怒ったスズメバチに刺されたというわけです。
私は急いでこの事態に関する全知識を思い出しました。スズメバチの毒はセロトニンをはじめとするアミン類で、ハチの中でもかなり強いものです。心臓が弱い人だとショックを起こし生命の危険さえあります。緊急的には少しでも毒を排出しなければなりません。また、スズメバチの毒は水溶性だったはずです。さらに、刺された部位を冷却することにより炎症と痛みを多少は和らげることができるはずです。ということで、まず刺された右手の人差し指の先端を強く押し、口で毒を吸引しました。苦い味がしたのである程度毒を吸い出すことができたはずです。もちろん、口の中に傷がある場合は吸い出したりしてはなりません。そのうえで、近くの水道で流水でよく洗浄しました。タオルを湿らせて指を冷やしながら歩いて帰宅し、念のため外科医にみてもらい、抗炎症、抗アレルギーの静脈注射をしました。幸い、応急措置が功を奏したのか全身症状は出ず、翌日には局部の痛みも軽快しました。
教訓2
知は力なり。
学ぶことは、試験対策のためとつい誤解しがちです。しかし、それだけではない。知識が人を救うこともあります。特に医学的知識は、有効です。虫刺されだけではなく、もっと深刻なケースでも知識は有効です。心停止の人がいたとき、救急車を呼ぶだけでは命を救える確率は8.2%なのに対して、胸骨圧迫をすると救命率が12.2%に上がり、さらにAEDの電気ショックが使用されればなんと救命率が53.2%となるという資料があります。重度のアレルギーに対してのエピペン注射も極めて大きな救命効果があります。これらの措置は、よく理解し知っていなければ実行するのに躊躇することでしょう。救急救命の講習を受けることはとても意味のあることですね。
以上が実際に話した内容です。
始業式で話せなかった教訓1への補遺
そもそも、善意の行為が正しい行為と呼べるかということが疑問です。私の「セミを助けようとした行為」は、正直に言って、セミの恩返しを期待してのことではもちろんありませんでした。ひっくり返っているセミをかわいそうに思い、助けてあげたいと思ったための行為です。つまりは、ささやかですが純粋に善意の行為だったわけです。
しかし、私の行為は、スズメバチにとってはとんでもない迷惑行為だった。せっかく捕まえて、自分の社会・国のために止めを刺し巣に運んで仲間や子供たちの食料となるはずのセミを逃すことになったからです。
もう少しし視野を広げましょう。自然界にとってスズメバチがアブラゼミを狩りすることは自然のことであり、セミの必要以上の増殖を防ぎ、木々を守る上で有益な行為です。その行為を妨げる私の行為は不適切な行為と言えます。ここでポイントは、私の行為がスズメバチからセミを奪い自分の食料にするなら自然の行為であり、適切な行為であることです。鷹が取った獲物を烏が集団で襲い奪うのはよくあることであり自然の行為です。セミが命を奪われ他の生物の餌となることは、鷹の餌になっても烏の餌となっても自然界のつり合いの中で意義のあることですが、ヒトの善意の行為は自然界にとって全く意味が無い、不適切な行為と言えます。
つまり、逆説的ではありますが、私のセミを助けるという善意の行為の自然界における倫理上の問題は、善意をもって行った行為だという点にあるのです。利己的な行為なら、自然界においては何らかの意味があり救いようがあるのです。アンブロース・ピアス張りに言えば、「自然界においては、善意は悪である」。冷たい言い方をすると、自然界における行為の評価は、系全体への影響であり、動機など全く問題なく結果が全てであるということです。
もちろん、考慮すべき系が自然では無く人間社会であるなら、問題は多少異なるかもしれません。しかし、人間社会に限っても、多様な利害関係、多様な文化・価値観があるところでは、ナイーブ(単純・素朴・世間知らず)な善意は、時に社会全体にとって有害にさえなる。集団同士の関係でも同様です。このことを頭の隅において、善意を発揮する際には、十分周囲・環境に配慮しなければならないと思います。最近、私が戦慄したアイロニー、「混乱の反動がいまの強権を招いたとするなら、皮肉なことにプーチン政権の生みの親はゴルバチョフ氏ともいえる」。坂井光による8月31日付日経デジタル記事より。
かなり冷笑的な話をしたので、今月の一冊は簡潔かつ抒情的な小説を。
『とわの庭』、小川糸、新潮社。シングルマザーに遺棄された盲目の少女が、鉛筆や消しゴムを口にしたりしながらも何とか生き延びて20歳過ぎて発見された。外を歩くことが無かったので『土踏まず』が形成されていなかったほどの少女が、支援してくれる人と盲導犬に出会い、自分にとっての世界を発見していく話。
気に入ったところはたくさんあるが、ここではこの物語の最後の部分をあげる。「確かに私は目が見えないけれど、世界が美しいと感じることはできる。この世界には、まだまだ美しいものがたくさん息を潜めている。だからわたしは、そのひとつひとつをこの小さな手のひらにとって、慈しみたいのだ。そのために生まれたのだから、この体が生きている限り、夜空には、私だけの星座が、生まれ続ける。」