第17回校長BLOG
緊急事態宣言解除後の生活、または、パラダイムシフトについて
みなさん、こんにちは。緊急事態宣言はやっと解除されました。しかし、東京都の新規感染者数を見ると、まだまだ安心はできません。今、生活スタイルとして最も重要なのは、感染症の第2波、第3波に備えつつ、言わば、恐る恐る普通の生活に戻していくことです。備えが無ければ、次の波が来た時に悲惨な状況になるでしょうし、そもそも、次の波に備えること自体が次の波を予防することにもなります。緊急事態宣言解除を受け、私たち教員も生徒の皆さんも気を緩めることなく、3密を避ける等の対応をしっかり続けていきましょう。
感染症対応、命と健康を守ることは最重要です。しかし、社会においてはそれだけでは足りない。社会生活を維持することも大事です。難しいのは、その二つのことが相反する事態が多いことです。世界を見渡しても、かなり多くの国と地域が経済的要求から感染症対応を緩和しています。
日本は、そして私たち附属高校は、両側が切り立った断崖のやせ尾根を歩いていくごとく、バランスを取って安全かつ着実に進んでいかねばなりません。
前にも書きましたが、新型コロナウイルス感染症のパンデミックは、世界の経済に激震を与えました。グローバル化した経済構造はウイルスの世界中への伝播を助け、その対応として国を閉ざすことによりサプライチェーン(物の供給の連鎖)が断裂し製造業が成り立たなくなりました。非製造業でも特に日本では対面での事業を主として来たので大いに困りました。会議も営業もできなくなったからです。学校教育も対面を前提にしてきたので、どうしていいのか悩みました。
しかし、感染症対応と社会生活維持とを両立させるために、いわば「外的要因により強制的に」システムの改革が進みました。製造業では、ベルトコンベヤーでの製造ラインから無人搬送車に未完成の製品を載せそれが自分で工場内の必要な場所に動いて完成させるラインに改造し自動化を進めた工場や、サプライチェーンのトラブルに備え3Dプリンターを活用して消費地に近い場所で生産するシステムが広がっています。会議や営業活動も、技術的には可能だが「決断」ができず進まなかったテレビ会議やオンライン営業が感染症対応で一気に促進されました。学校でも、オンライン授業やテレビ会議が進みました。
テレビ会議等では、相手の感情が読み取れないとか、場の雰囲気がわからないと言った批判がありました。しかし、実際に実行してみると、確かに相手への忖度ができないという欠点がありますが、その反面、合理的な資料に基づいた判断ができる、主題から脱線した議論になりにくいなどの特徴もありました。また、インダストリー4.0(生産現場でデジタル技術を活用して「もの」同士が情報を交換し合って多品種少量生産等を効率的に進める製造システム)やオンライン授業、テレビ会議を進めるために、職場のIT環境が改善され、職員のITスキルが向上するといった効用もあったそうです。
これらの、仕事の場(学校教育も含め)の変化は、働き方の改革にもつながります。感染症対応として普及した在宅勤務やテレビ会議等は、感染症収束後も続きそうです。その結果として既に人事制度を変えつつある企業が複数出てきています。新しい在宅勤務にも対応できる人事制度とは、一言で言えば成果主義です。一時は日本の企業も成果主義を取り入れようとしたのですが、旧来の労働環境・労働慣習と相いれず思ったほどは進みませんでした。しかし、在宅勤務では、労働時間に応じた評価ではなく、成果に応じた評価を取らざるを得ません。職務内容を明確にした上でできるだけ客観的に成果を評価しようとしています。分析、企画、立案といった業務は特に在宅・成果主義の勤務に適応しやすいそうで、富士通では管理職にこの成果主義(ジョブ型というそうです)を導入するとのことです。これにより、他のOECD諸国に後れを取っていた非製造業での生産性の向上が期待できるとのことです。
新型コロナウイルス感染症により、多くの被害が出て、困難な事態も多々あります。少しでも早い収束を心から願っています。しかし、この事態からひたすら逃げることを考えるだけではなく、次にこのような事態がまた出来した時の準備もしておく必要があります。それは新たな感染症だけではなく、戦争や貿易戦争、地震や津波といった自然災害かもしれません。このような事態に対して、社会生活を維持するためには、旧来の社会システムではない新たな社会システムが必要です。よく言われることですが、この新型コロナウイルス感染症という世界的なピンチを人にとってより良い社会システムへの改革のチャンスにしたいものです。以前、ダニエル・デュフォーやアルベール・カミュの「ペスト」を紹介しました。過去のペスト大流行では、それにより社会は大きく変化したそうです。社会構造とそれに伴う価値観・規範の体系などの劇的な変化をパラダイムシフトと呼びます。今は、まさに、世界中がパラダイムシフトの真っ最中だと考えます。変化の時は、若者にとってチャンスの時です。
日経新聞の「池上彰の大岡山通信」によると、アイザック・ニュートンは、ペストによりケンブリッジ大学が休校になり、ふるさとで過ごして、万有引力や微積分のアイデアのきっかけを構想したそうです。こうした時間を創造的休暇と呼ぶそうです。生徒の皆さん、皆さんもコロナ禍で転んでもただでは起きないで、学校での拘束時間が短いことを創造的休暇に転じてください。
今月の1冊、アメリカ合衆国のH・D・ソローの「ザ・リバー」、宝島社。自然文学の作家、代表作は「森の生活」。このザ・リバーも川について淡々と記した随筆集です。このパラダイムシフトの時代に、このような静的な文学を読むのも良いのではないでしょうか。アメリカはもとより世界中の知識人に深い影響を与えています。
では、またこのブログでお目にかかりましょう。お元気でお過ごしください。
第16回校長BLOG
附高生への回答または世界と自分
みなさん、こんにちは。新型コロナウイルス感染症はやっとその勢いを減じ、近々東京でも緊急事態宣言が解除されそうです。ただ、気を緩めると、第二、第三の感染増加がおきかねません。まだしばらくは注意を緩めず、完全な収束を目指しましょう。学校が再開されると当座の事務処理、授業再開の対応が忙しくなり、この週1回の校長ブログも、本来の月1回に戻ることになります。そういう意味では(そういう意味に限れば)少し寂しい気持ちもあります。
今回は嬉しい知らせがありました。私の勧めた本を読んでくれた附高生が質問をしてくれたのです。昔、前任校で、やはり私の勧めたスペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットの「大衆の反逆」を読んで感想を伝えてくれた生徒がいました。その時以来の喜びでした。
以下は、その附高生からの手紙とそれに対する私の回答です。A君に掲載許可は取りました。
3年Aです。
大野先生がお勧めなさっていた,「方法序説」をこの休みの期間中に購入して読みました。
その中でどうしても疑問に思った点があります。
デカルトの三つの格率の第三の格率では,
「運命よりむしろ自分に打ち克つように,世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように」
と書かれています。
京都大学,川崎倫史教授の「デカルトの《仮の道徳》について」という論文を読みながら考えましたが,どうも私にはこの考え方がうまく当てはまりません。
というのも,自分の欲望について,妥協をすることは必ずしも正しいことではないと考えているからです。デカルトは精神的生活の充足を目的として,おそらくこの本を書いていますが,今の時代を生きる上で,それだけを追ってしまっては,物質的な豊かさを得ることができなくなってしまうのでは,と思います。
先生は方法序説を読んで,どのように考えますか?
できれば,大野校長に直接お聞きしたかったのですが,それは可能でしょうか?
回答よろしくお願いします。
校長の大野です。
私が紹介した「方法序説」を読んでくれてありがとう。発信した思いを受け止めてくれた生徒がいるということはとても嬉しい。毎週の校長ブログを続けてきたかいがあったというものです。
さて、君の質問に対して、二つの方向から私の考えを述べようと思います。一つは、現代の状況下で世界と個人を考えること。もう一つは、デカルトの時代と彼の世界において世界と個人を考えること。
第1の視点が、まさに君の言わんとしたことでしょう。現代の、グローバル化、情報化が進むこの世界において、個人と世界の関係は如何にあるべきか。結論を言います。私は、デカルトの意見には反対で、個人は世界に対峙し、個人の世界観と価値観とをもって世界を変えるべく行動すべきだと思います。今の時代は、一時代前(Society4.0)の大量生産の社会と異なり、個人の「思い」や「アイデア」が、それが真に価値のあるものなら、迅速にかつ世界中に容易に広がる時代です。真に価値があるかそうでないかは、荒っぽく言えば「結果論」です。やってみなければわからない。
既存の秩序や世界観を絶対視し、自分を殺して生きることは、自分自身にとって満足できる生き方でないだけではなく、世界にとってもいいことではない。世界が変化し進歩するためには、異分子が必要です。その世界に異を唱え、抵抗する存在があってこそ、その存在への対抗として世界は自らを変えるのです。民主主義・資本主義が、社会主義・共産主義との競争と競合の中で、相手方の社会保障、福祉国家の発想を取り入れ修正資本主義として結果として相手に打ち勝ったようなものです。現代にはダイバーシティの尊重こそ必要なのです。
さらに言えば、現代の社会システムである資本主義は、個人がそれぞれの欲望を満たそうとする「利己的な行動」をその原動力としています。もちろん、他に迷惑をかけたり非合法な手段で欲望を満足させることは資本主義にとってもご法度です。しかし、合法的な範囲で自分の欲求に沿って活動するエネルギーに溢れた個人こそ、シリコンバレーの住人のように現代社会に必須の尖った存在であることは確かです。そこにこそ、資本主義的な進歩があります。少なくとも若いうちは、運命を変えるべく、世界の秩序を自らの欲求に沿って再構築するくらいの意気込みで頑張るのは有意義なことです。
さて、第2の視点です。デカルトが生まれてすぐの1600年にはコペルニクスの地動説を支持したイタリアのジョルダーノ・ブルーノが神への冒涜等の理由で火あぶりの刑にあっています。1633年には同じく地動説を支持したイタリアのガリレオ・ガリレイが異端審問にかかり終身刑を言い渡され、デカルトもあわてて自分の宇宙論の公刊を取りやめます。そして、デカルトがフランスで方法序説を書き上げたのが1637年です。
「運命よりむしろ自分に打ち克つように,世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように」くらいは言いたくもなるでしょう。本音を言っているのです。私はこれは処世術だとも敗北主義だとも思わない。自分の利益のために長い物に巻かれるのは格好悪いことかもしれません。しかし、デカルトの時間・空間(1600年ころの中部・南部ヨーロッパ)においてローマ教会に逆らうことは、正に命にかかわることだったのです。命のためなら、そして他者を大して傷つけることがないなら、自分の考えくらいいくらでも曲げればよい。一人になったときに、「それでも地球はまわる」とでも言えばよいのです。
他者を批判するときには、他者の時空を考慮しなければいけない。自分の立場でのみ物を考え、自分の考え以外の考えを軽視し排する姿勢は危険です。それぞれの時代のそれぞれの世界の人が、それぞれの事情を抱えている。そのことを自覚し、配慮できるのが大人です。
ということで、最初には言及しなかった第3の視点です。そもそも、周囲の世界とは独立して自分というものがあるのか、自分の欲望というものは誤解に過ぎないのではないかという疑問です。デカルトがいうように方法的懐疑が必要です。
自分探しの旅という言葉が流行った時期がありました。今ここにいる自分は本来の自分ではない、今の自分の役割は本来の自分にふさわしいものではない。世界のどこかには、本来の自分をそのまま認めてくれるところ、本来の自分が力を発揮できる場所があるはずだ。自分が変わるのではなく、その場所さえ見つければ、全てはうまくいくという発想です。バブルの時代でもあり、メディアでも主流派となり、多くの若者が職を転々として、そして世界中を渡り歩きました。でも、当然のことですが自分が変わることなく世界が変わるはずがない。結果論として、多くの日本の若者が、本来修行すべき年月を浪費してしまったと私は思います。
自分は世界との関係性の中にこそある。世界に対して有意に働きかけることによって自分が確立していく。有意の働きかけをするためには力がいる。運命を呪ったり、自分の至らなさを周りの環境のせいにすることなく、自分を鍛え変えていく。そういった営為の中にこそ世界を変える契機があると考えます。第3の視点の結論は、私が常日頃言っている老人の繰り言です。青年老い易く、学成り難し。附高生よ、勉強するのは、今、です。
では、またこのブログでお目にかかりましょう。お元気でお過ごしください。
第15回校長BLOG
不条理との対決または父と暮らせば
みなさん、こんにちは。新型コロナウイルス感染症は少しずつ収束に向かうかの様相を示してきました。是非とも、このまま後戻りしないでほしいものです。ただし、願いは願いとして、実際の対応としてはまだまだ再流行への警戒は緩めるわけにはいきません。ワクチンが完成し普及するまでは、いざという時に備え、できるだけ3密自粛は続けていきましょう。オンライン授業も少しずつ慣れてきたのではないでしょうか。友人と会えずストレスも大きいことと思います。心配なことがあれば、担任の先生やスクールカウンセラーの先生へ遠慮なく相談してください。
「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことを真面目に書く」
劇作家井上ひさしの言葉です。彼は、戦争をはじめとする大いなる不条理と不幸に正面から向かい合い、庶民の目と感覚でそれを描き、観客と読者に自分の問題として深く考えさせ、しかし、観客や読み手をしかめ面にさせるのではなく微笑ませ時には哄笑させます。そして、彼の執筆態度はまじめで完全主義で、そのあまり、最後の最後まで最高を求めるため締め切りを守れないことが多く、劇の初日になったのに脚本ができていないで幕が開かなかったという逸話があり、自ら遅筆堂と称したぐらいです。
私が彼の作品の中で一番好きなのは、「父と暮らせば」という芝居です。放送劇として聞き、劇を見、戯曲を読みました。この芝居により、元気のないときには力づけられ、うれしいことがあったときには益々生きている喜びを感じます。
物語は太平洋戦争後の広島、まだ、人々の間で原子爆弾の傷跡が生々しく残っていた時代の話です。主人公は図書館に勤める若い女性、原爆で父や親友を亡くしています。自分だけが生き残ったことを申し訳なく思い、自分一人が幸せになってはいけないと思い込んでいます。親友の母親に、なぜ私の娘でなくあなたが生きているのかと言われ、お前は生きよという父自身の言葉に従ったからとはいえ父を見捨てて逃げたことに強い罪悪感を抱いています。そんな中で、大学に勤める青年に好意を寄せるようになり、青年も彼女を好いているのですが、自分の気持ちの整理がつかず幸せから逃げようとします。そんな時、死んだ父親が「恋の応援団長」として現れ、娘に希望を抱かせようとします。その過程で、娘の親友の死や父自身の死についての娘の凝り固まった思いをほぐしていきます。最後には、娘は、「おまいはわしによって生かされとる」、「人間のかなしかったことこと、たのしかったこと、それを伝えることがおまいのしごとじゃろうが」という言葉に救われ、青年と向かい合い生きていくことを決意します。そして娘の言葉、「おとうたん、ありがとうありました」。
原子爆弾が広島に投下され、娘の周囲の人々が亡くなったことに娘は一切責任がありません。親友の死にも、父親の死にも、なんら後ろめたさを感じる必要は無い。それらの悲劇は決して必然的なものではなく、残酷なまでの偶然であり不合理な不条理です。しかし、人は圧倒的な不条理にあうとそのことを客観視できず、時に他人のせいにし、時に自分自身を責めてしまいます。冷酷な言い方ですが、自分自身を責めることに逃げるとさえ言えるかもしれません。
しかし、不条理から逃げようとしても自分の気持ちから逃げることはできない。不条理には立ち向かうしかないのです。今現在の不条理には、勇気をもって、他者と協力して、辛くても理性が必要だと命ずることを淡々とやり抜くことが必要です。この話のように不条理が過去に起こったことなら、そのことを伝えること、二度と繰り返さないことが不条理との戦いでしょう。
幸いにも私たちは今回の不条理の出口付近にいるのかもしれません。しかし、油断すると不条理は再び迫ってきます。また、新たな不条理が現れることもあるでしょう。過去の記憶を生かし、現在の状況下で最善の選択と実行を行うこと、それこそが、現下の不条理に対する対決です。できないことを嘆くより、できることを考え、感染症対策には十分配慮しながら、徐々に普通の生活に戻していきましょう。今となっては普通の生活がどんなに貴重なものだったかがよくわかります。
今週の1本、1枚、1冊は、井上ひさし作、「父と暮らせば」。私は、宮沢りえ主演の映画、はまけいと斉藤ともこのCD、そして新潮文庫の脚本と3度この話を体験しました。できれば、みなさんにもそうしてほしいと思います。美しく果敢無げな宮沢りえの演技に酔い、すまけいと齋藤とも子のせりふの深みを味わい、脚本でそれまで気づかなかった井上ひさしの仕掛けに驚いてほしい。広島言葉が何とも魅力的です。脚本は新潮文庫にあります。
是非、ご視聴、ご一読を。
では、また来週このブログでお目にかかりましょう。お元気でお過ごしください。