第6回 校長BLOG
あけましておめでとう。今年が皆さんにとって良い年であるように。
さて、私は、正月に東京国立市の谷保天満宮に初詣に行った。天満宮は菅原道真を祀った神社で、菅原道真と言えば学問の神様である。3年生諸君の入試での実力発揮を願ってきた。
さて、3年生の中には、来るべき大学入試への不安を感じる人も多いことだろう。今日は不安について話そう。
一般に、不安とは定かでないものを恐れることであり、未来の不確定なことが対象となる。不安は、対象が対応可能なものと対応困難なものに分かれる。
①自分は、三角関数が苦手なので数学の試験が不安だというケース。
これは、対象が明確な不安であり対応が可能である。対象、この場合は三角関数をしっかり勉強すればよい。
②試験で何かトラブルがあったらどうしよう不安だというケース。
これは、漠然とした不安であり、対象が対応困難な例である。しかし、影響は明確で、往々にして不安がって勉強が進まないということになる。
ところで、一般的に、「こと」が進まない失敗のパターンとして次のようなことが考えられる。石橋を渡ろうとして、不安に駆られ、石橋を叩いて試す。叩いても叩いても納得しない。ついには石橋を叩き壊してしまう。そこで、ああ、やはり壊れたと納得する。ある目的に対し、不安を次々に見つけ出し不安を増幅する。マイナス面を言い立てて実行しない。当然物事は進まない。進まないので、やはり不可能だったと納得する。
こうなってはならない。漠然とした不安への対応法として、私が勧めるのは次の通り。
「対応可能な目前の課題解決に集中し、やるだけのことをやったら後は天に任せる。」
単純にして、当たり前の対応である。しかし、なかなか実行できないことでもある。
実行のポイントは三つ。
1 対応可能な不安と対応困難な不安にわける。
2 対応可能な不安に取り組む。
対応可能な不安は取り組むべき課題であり、全力でやるだけのことはやる。
3 後は天に任せること。
神頼みであり他力本願である。しかし、これが重要である。やるべきことをやっても幾分かの不確定性は必ず残る。その時に、不安を募らせるとかえって失敗の確率が高まる。キリストでもアッラーでもブッタでも八百万の神々でもはたまた「自分の悪運」でも、信じて後は任せるとうまくいく可能性が大である。
結論 堅実で勤勉な楽天主義を凌駕する不安はない
今月の一冊
バートランド・ラッセル 幸福論 岩波文庫
著者は、数学者であり、哲学者、主著はホワイトヘッドとの共著で「プリンキピア・マテマティカ(数学原理)」。「相対性理論が発表されて数年間、それを真に理解しているのは、アインシュタインとラッセルの2人しかいない。」とまで言われた人物である。
この本で、幸福になるためには、物事を論理的・科学的に考え、自分自身ではなく周囲の世界に目を向け、イノベーティブに生きること、できないことに固執せず、自分のなすべきことを着々となすことこそが大事だと説く。
皆さんは、「自分探しの旅」で、彷徨い続けることなどないように。
第5回 校長BLOG
変化(グローバル化?)と揺り戻し(アンシャンレジーム)または大山鳴動して鼠一匹
再度言及する。英語民間試験(4技能)の導入延期に続き、数学と国語の記述式問題導入も見送りが決まった。思考力、判断力、表現力、重視への方向ではあるが、「形式的」な改革はほとんどなくなった。現状では、2年生はもちろん、1年生も同様のようだ。
本校の多くの生徒は、基礎基本をしっかり身に着けた上での迅速な処理力(共通テスト)と、しっかり考えて記述する力(個別試験)の両方が必要、即ち現状とあまり変わりない。3年生は、万が一浪人したらどうしようかと気にしていたかもしれない。2年生はまさに渦中の学年だったので、その心配はひとしおだったことだろう。
しかし、英語において、「書く」ことと「話す」ことも重要であり、国際社会で活躍するためには必須であることは変わらない。同様に、思考力、判断力、表現力とその具現化したものとしての記述力が社会において増々必要となっていることも変わらない。どちらも改革が必要なことであったが、その方法(戦術)に些か問題があったということだろう。大学受験という目先のことだけを考えても、現状でさえ、個別試験対応として英語における「書く」力と該当教科での記述力とは是非とも必要である。努力してきた「変化への対応」の勉強の成果を発揮するのが、共通テストと個別試験の両方か、個別試験のみかの違いであり、生徒の皆さんは、淡々とかつ自信をもって対応すればよい。
高大接続改革の混乱状況に振り回された生徒諸君には、我々大人の紆余曲折のために迷惑をかけ、大人の一人として、反省し、お詫びする。
ところで、改革と言えば、ここ数年の反グローバル化の世界的な動きがいよいよはっきりしてきた。その象徴的な動きが、ブレグジットとトランプ大統領である。イギリスではジョンソン首相の保守党が大勝し、もうブレグジットに歯止めはかからない。そもそも保守党と労働党との差異は、市場重視(保守党の小さな政府)か分配重視(労働党の大きな政府)かであったはずなのに、今回の選挙では対立軸が変化して、労働党のグローバル化(公平な競争の重視)か保守党の反グローバル化(既得権重視)かということになり、労働党支持だった労働者がグローバルな競争を嫌い保守党支持となったというふうに私は考える。トランプ大統領も、「自分の国が最優先」という発想なので、就任当初は共和党穏健派やメディアも批判的であり、長くはもたないと言われていた。しかし、今では少なくとも表面上は共和党が党を挙げて全面的に支持しているし、アメリカ国民の半数近くが彼を支持している。地球規模の温暖化対策を考えるより、明日の私の仕事を重視するということだろう。
前にも言ったが、まさに「大衆の反逆」の時代である。わずか5、6年前にはグローバル化の波が停滞するなど考えられなかったのがこの状況である。日本とその周りの環境も例外ではない。
このような状況下で、我々一般人がするべきことは、冷静に情報収集をして、しっかりと時代と社会を読み解く力の育成を図り、自分の日々の責務を果たすことである。こんな時こそ、「職業としての学問」、「学問のすすめ」の実践をすべき時である。
今月の1冊、加藤陽子著、「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」、新潮文庫。東京大学の日本近現代史専攻の学者が、神奈川県の「栄光学園」の生徒に5日間にわたって、日清戦争から太平洋戦争までを語った講義をもとに作られた本である。昨年度、君たちへの特別講義をもとに池上彰先生が東南アジアについての本を書かれたのと同様の成り立ちだ。特に客観的・合理的にはやるべきではなかった太平洋戦争に何故突入したのか、単に戦争はいけないことだからやるべきではない(この考えが最も大切であることを認めつつも)ということでは終わらない議論がスリリングに展開する。理系の諸君にこそ読んでほしい本である。
第4回 校長BLOG
危機管理について
最近の流行語の一つに、「ボーっと生きてんじゃねえよ」というのがあります。確かに、グローバルに見れば、日本人はボーっとしているかもしれない。しかし、それはそうしていても生きていられるということで、ある意味悪いことではない。むしろ、世界中がボーっと生きていられる状態になることが人類の夢かもしれない。
残念ながら、世界の多くの国では、自分でしっかり注意して緊張していなければ生きていけない。例えば、歩いて道路を横断する場合です。中部から北部のヨーロッパを除いた世界の多くの国では、気合を入れなければ無事に横断できません。横断歩道だのあまりなく、ましてや歩行者用の信号などめったにない。渡るときには、左右から車が来ないことを確認して渡るわけですが、大都市の交通量の多い道路ではなかなか車が切れません。ボーっと待っているといつまでたっても渡れないことになる。そこで、接近する車に「がんを飛ばす」、つまりは、運転手をにらみつけ俺が渡るから止まれよな、と眼力に物を言わすわけです。車もいちいち止まっていられないので歩行者を無視して通過しようとする。まさに、チキンレースが始まるわけです。歩行者としては強気だけではいけない。ある程度強気で渡るぞという強い意志を発しながら、運転者のほうがより強気だと判断したらさっとあきらめる。捲土重来を期すわけです。
日本にいれば、横断歩道と歩行者信号があり、個人としての歩行者が頑張る必要はない。しかし、国際社会で活躍するためには、気合を入れて道路を渡らなければならない。とりたてて自己責任などと言わなくとも、他者に自分の安全を委ねられる社会はめったに無いのです。グローバル社会は厳しい側面を持ち、だから強く反対する人も多いのです。
在ミラノの日本国総領事館のホームページに以下の文がありました。「イタリアにおける運転手のマナーは他の国と変わらず自己中心的で交通ルールはあってないようなもの、交通事故の危険性も日本に比較し遙かに高いです。」ヨーロッパの古い文明国たるイタリアにおいておや。言うまでもなく、このことは交通マナーのことだけではありません。基本的には、自分の安全は自分で守るというのがグローバルスタンダードです。
一般に安全な国とは、自分がしっかり周囲に注意し気を張って行動すれば安全である国であり、危険な国とは、いくら個人が注意していてもかなりの確率でリスクが降ってくる国のことです。もちろん、リラックスしていても安全な社会が理想であり、私たちはそういった国際社会を作っていきたいものです。しかし、そういった国際社会を作るためには、自分さえよければ、とか、自分の国さえよければ、といったことではなく、周囲の流れに反してでも他者のためにリスクを冒す覚悟が無ければならない。ポピュリストではだめなのです。
今月の一冊、ボーっと生きていなかった典型人物ユリウス・カエサルの「内乱記」を、2000年以上前の軍人・政治家とは思えぬ明晰な文章です。