第50回校長BLOG
2学期終業式の校長挨拶
おはよう。
先日、朝登校すると、サッカー部の生徒何人かが銀杏の落ち葉を掃いていた。黄葉はきれいだが落ち葉は困りもの、掃除をしてくれて嬉しかった。ありがとう。
さて、胡蝶の夢という話が、中国戦国時代の思想書「荘子(そうじ)」にある。
自分が夢で蝶になって嬉々として飛んでいたが、夢から覚めると人間であった。果たしてこの自分は、蝶になった夢を見た人間である自分なのか、それとも、蝶が人間になった夢を見ているのかと考えるという話。
自分自身が夢を見た当人なら、今そんなことを考えている自分の意識は実存(我思う、故に我あり)だから人間の自分が蝶の夢を見ていたと言えるが、荘子(そうし)以外の人から見れば荘子の意識は計り知れないわけで、蝶の夢としての荘子という仮説は捨てきれない。この話は、ろくに証明もできないことに悩むのは意味のないことで、自分探しの旅などと言わず、その時その在りようが自分だとして、その場をしっかりとかつ喜ばしく生きていくことが大事だと言っている、と私は考えている。
ところで、先日、あるベンチャー関連の企業主催の勉強会に出た。「意識のアップロードとAI社会の展望」- 脳科学×人工知能の融合領域から見える今後の未来とは?-というテーマで、講師は、脳科学研究者。
内容は、AIに意識は宿るかということ。人の意識の働きを神経シナプスのシステムとみれば、それをAIで模倣することは可能であるということだった。即ち、神経シナプス同様、各チップが入力された情報に対してある種の演算に基づく情報を出力して他のチップに伝え、その構造全体をシステム化できれば、その一連の働きを意識としてもよいのではないか、ということ。つまり、意識とは何かという哲学的課題はとりあえず横に置き、意識らしい働きをするなら意識と呼んでもよいのではないかという発想だった。
車の自動運転で、前にある障害物を自動的に避けるシステムは完成しているが、この程度では、多くの人は自動車に意識があるとは言わない。しかし、人が車に乗って今日は疲れたからスタミナのつく夕食を作って食べたいとつぶやくと、車が、あなたの健康データからすると脂肪や炭水化物は控えてたんぱく質と野菜を多量にとったほうが良いからネギマなどどうですかなどと答える。人がいいねえと言うと、車は、今日のバーゲン情報からマグロと深谷葱の安いスーパーを探して駐車場まで連れて行ってくれ、一方家の炊飯器に連絡を取り米を炊いておく、となったらどうであろうか。この車は自分の提案が拒否されたら少し拗ねるくらいのことは簡単にやれる。
このようなシステムが高度に洗練されると、量は質に転化し、疑似意識といえるものになるのではないか。そうなってくると、この「意識」には人権があるのか、少なくとも動物愛護程度の配慮は必要ではないかという問題も生じてくる。さらには、映画「2001年宇宙の旅」の人工知能HALと同様、意識を持ったAIが人間を攻撃する可能性も考慮しなければならない。AI搭載の兵器は戦場に投入されているようだし、この問題は、最先端のAI研究者や脳科学者の一部で本気で考えられていることだ。
Society5.0の現代は、SFで描かれた世界がまさに実現しつつある。若い皆さんも油断していると時代と技術に置いていかれる。恐ろしくも興味深い時代ではある。
今日のお勧めの一冊は、SFの名作、イギリスの作家ジョージ・オーウェルの「1984年」、現代の世界の反ユートピア的描写であり、残念ながら現代、世界中で起こりつつある状況を見事に予言している。ハヤカワepi文庫で新訳が出た。なんと解説は「重力の虹」のトマス・ピンチョン。是非、一読を。
「Wishing you a Merry Christmas
and a Happy New Year!」