第37回校長BLOG
2学期始業式挨拶とその補遺としての『悪魔の辞典』
以下は、始業式での挨拶です。
おはようございます。校長の大野です。
久しぶり、元気でしたか。今日は、私が被った災難から得られた教訓を2つ。
私はこの夏休みにスズメバチに右手の人差し指を刺されました。ジョギング中に地面であおむけになってバタバタしているアブラセミを助けてやろうと拾い上げたら、セミの背中に縋り付いて狩りをしていたスズメバチに刺されたのです。セミの恩返しを期待して柄にもない仏心を出したのが失敗でした。
教訓1
善意の行為が必ずしも良い結果をもたらすとは限らない。
善意で動くとき、人は周囲・環境への注意がおろそかになります。「小さな親切、大きなお世話」にならぬよう気を付けたいものです。
さて、セミを拾い上げて助けたとき、指がちくっと痛み、セミは左側に飛び去り、同時にセミに匹敵する大きさの黄色と黒の縞模様が悠然と右に飛んでいきました。一瞬何が起こったのかわからなかったのですが、指の痛みとこの映像とから蜂に刺されたことがわかりました。そして、アブラゼミを狩りする大きさ強さと、人を刺して悠然と飛び去る様から、スズメバチに刺されたことがわかりました。ミツバチなら、針に返しがあり、一たび刺すと自分では針を抜くことができなくなるからです。無理に抜こうとするとお腹がちぎれて死んでしまうのです。つまりは、私はスズメバチの狩りを邪魔をしたため、怒ったスズメバチに刺されたというわけです。
私は急いでこの事態に関する全知識を思い出しました。スズメバチの毒はセロトニンをはじめとするアミン類で、ハチの中でもかなり強いものです。心臓が弱い人だとショックを起こし生命の危険さえあります。緊急的には少しでも毒を排出しなければなりません。また、スズメバチの毒は水溶性だったはずです。さらに、刺された部位を冷却することにより炎症と痛みを多少は和らげることができるはずです。ということで、まず刺された右手の人差し指の先端を強く押し、口で毒を吸引しました。苦い味がしたのである程度毒を吸い出すことができたはずです。もちろん、口の中に傷がある場合は吸い出したりしてはなりません。そのうえで、近くの水道で流水でよく洗浄しました。タオルを湿らせて指を冷やしながら歩いて帰宅し、念のため外科医にみてもらい、抗炎症、抗アレルギーの静脈注射をしました。幸い、応急措置が功を奏したのか全身症状は出ず、翌日には局部の痛みも軽快しました。
教訓2
知は力なり。
学ぶことは、試験対策のためとつい誤解しがちです。しかし、それだけではない。知識が人を救うこともあります。特に医学的知識は、有効です。虫刺されだけではなく、もっと深刻なケースでも知識は有効です。心停止の人がいたとき、救急車を呼ぶだけでは命を救える確率は8.2%なのに対して、胸骨圧迫をすると救命率が12.2%に上がり、さらにAEDの電気ショックが使用されればなんと救命率が53.2%となるという資料があります。重度のアレルギーに対してのエピペン注射も極めて大きな救命効果があります。これらの措置は、よく理解し知っていなければ実行するのに躊躇することでしょう。救急救命の講習を受けることはとても意味のあることですね。
以上が実際に話した内容です。
始業式で話せなかった教訓1への補遺
そもそも、善意の行為が正しい行為と呼べるかということが疑問です。私の「セミを助けようとした行為」は、正直に言って、セミの恩返しを期待してのことではもちろんありませんでした。ひっくり返っているセミをかわいそうに思い、助けてあげたいと思ったための行為です。つまりは、ささやかですが純粋に善意の行為だったわけです。
しかし、私の行為は、スズメバチにとってはとんでもない迷惑行為だった。せっかく捕まえて、自分の社会・国のために止めを刺し巣に運んで仲間や子供たちの食料となるはずのセミを逃すことになったからです。
もう少しし視野を広げましょう。自然界にとってスズメバチがアブラゼミを狩りすることは自然のことであり、セミの必要以上の増殖を防ぎ、木々を守る上で有益な行為です。その行為を妨げる私の行為は不適切な行為と言えます。ここでポイントは、私の行為がスズメバチからセミを奪い自分の食料にするなら自然の行為であり、適切な行為であることです。鷹が取った獲物を烏が集団で襲い奪うのはよくあることであり自然の行為です。セミが命を奪われ他の生物の餌となることは、鷹の餌になっても烏の餌となっても自然界のつり合いの中で意義のあることですが、ヒトの善意の行為は自然界にとって全く意味が無い、不適切な行為と言えます。
つまり、逆説的ではありますが、私のセミを助けるという善意の行為の自然界における倫理上の問題は、善意をもって行った行為だという点にあるのです。利己的な行為なら、自然界においては何らかの意味があり救いようがあるのです。アンブロース・ピアス張りに言えば、「自然界においては、善意は悪である」。冷たい言い方をすると、自然界における行為の評価は、系全体への影響であり、動機など全く問題なく結果が全てであるということです。
もちろん、考慮すべき系が自然では無く人間社会であるなら、問題は多少異なるかもしれません。しかし、人間社会に限っても、多様な利害関係、多様な文化・価値観があるところでは、ナイーブ(単純・素朴・世間知らず)な善意は、時に社会全体にとって有害にさえなる。集団同士の関係でも同様です。このことを頭の隅において、善意を発揮する際には、十分周囲・環境に配慮しなければならないと思います。最近、私が戦慄したアイロニー、「混乱の反動がいまの強権を招いたとするなら、皮肉なことにプーチン政権の生みの親はゴルバチョフ氏ともいえる」。坂井光による8月31日付日経デジタル記事より。
かなり冷笑的な話をしたので、今月の一冊は簡潔かつ抒情的な小説を。
『とわの庭』、小川糸、新潮社。シングルマザーに遺棄された盲目の少女が、鉛筆や消しゴムを口にしたりしながらも何とか生き延びて20歳過ぎて発見された。外を歩くことが無かったので『土踏まず』が形成されていなかったほどの少女が、支援してくれる人と盲導犬に出会い、自分にとっての世界を発見していく話。
気に入ったところはたくさんあるが、ここではこの物語の最後の部分をあげる。「確かに私は目が見えないけれど、世界が美しいと感じることはできる。この世界には、まだまだ美しいものがたくさん息を潜めている。だからわたしは、そのひとつひとつをこの小さな手のひらにとって、慈しみたいのだ。そのために生まれたのだから、この体が生きている限り、夜空には、私だけの星座が、生まれ続ける。」