校長BLOG

第16回校長BLOG

附高生への回答または世界と自分

 みなさん、こんにちは。新型コロナウイルス感染症はやっとその勢いを減じ、近々東京でも緊急事態宣言が解除されそうです。ただ、気を緩めると、第二、第三の感染増加がおきかねません。まだしばらくは注意を緩めず、完全な収束を目指しましょう。学校が再開されると当座の事務処理、授業再開の対応が忙しくなり、この週1回の校長ブログも、本来の月1回に戻ることになります。そういう意味では(そういう意味に限れば)少し寂しい気持ちもあります。
今回は嬉しい知らせがありました。私の勧めた本を読んでくれた附高生が質問をしてくれたのです。昔、前任校で、やはり私の勧めたスペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットの「大衆の反逆」を読んで感想を伝えてくれた生徒がいました。その時以来の喜びでした。
以下は、その附高生からの手紙とそれに対する私の回答です。A君に掲載許可は取りました。

3年Aです。
大野先生がお勧めなさっていた,「方法序説」をこの休みの期間中に購入して読みました。
その中でどうしても疑問に思った点があります。
デカルトの三つの格率の第三の格率では,
「運命よりむしろ自分に打ち克つように,世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように」
と書かれています。
京都大学,川崎倫史教授の「デカルトの《仮の道徳》について」という論文を読みながら考えましたが,どうも私にはこの考え方がうまく当てはまりません。
というのも,自分の欲望について,妥協をすることは必ずしも正しいことではないと考えているからです。デカルトは精神的生活の充足を目的として,おそらくこの本を書いていますが,今の時代を生きる上で,それだけを追ってしまっては,物質的な豊かさを得ることができなくなってしまうのでは,と思います。
先生は方法序説を読んで,どのように考えますか?
できれば,大野校長に直接お聞きしたかったのですが,それは可能でしょうか?

回答よろしくお願いします。

校長の大野です。
私が紹介した「方法序説」を読んでくれてありがとう。発信した思いを受け止めてくれた生徒がいるということはとても嬉しい。毎週の校長ブログを続けてきたかいがあったというものです。

さて、君の質問に対して、二つの方向から私の考えを述べようと思います。一つは、現代の状況下で世界と個人を考えること。もう一つは、デカルトの時代と彼の世界において世界と個人を考えること。

第1の視点が、まさに君の言わんとしたことでしょう。現代の、グローバル化、情報化が進むこの世界において、個人と世界の関係は如何にあるべきか。結論を言います。私は、デカルトの意見には反対で、個人は世界に対峙し、個人の世界観と価値観とをもって世界を変えるべく行動すべきだと思います。今の時代は、一時代前(Society4.0)の大量生産の社会と異なり、個人の「思い」や「アイデア」が、それが真に価値のあるものなら、迅速にかつ世界中に容易に広がる時代です。真に価値があるかそうでないかは、荒っぽく言えば「結果論」です。やってみなければわからない。

既存の秩序や世界観を絶対視し、自分を殺して生きることは、自分自身にとって満足できる生き方でないだけではなく、世界にとってもいいことではない。世界が変化し進歩するためには、異分子が必要です。その世界に異を唱え、抵抗する存在があってこそ、その存在への対抗として世界は自らを変えるのです。民主主義・資本主義が、社会主義・共産主義との競争と競合の中で、相手方の社会保障、福祉国家の発想を取り入れ修正資本主義として結果として相手に打ち勝ったようなものです。現代にはダイバーシティの尊重こそ必要なのです。

さらに言えば、現代の社会システムである資本主義は、個人がそれぞれの欲望を満たそうとする「利己的な行動」をその原動力としています。もちろん、他に迷惑をかけたり非合法な手段で欲望を満足させることは資本主義にとってもご法度です。しかし、合法的な範囲で自分の欲求に沿って活動するエネルギーに溢れた個人こそ、シリコンバレーの住人のように現代社会に必須の尖った存在であることは確かです。そこにこそ、資本主義的な進歩があります。少なくとも若いうちは、運命を変えるべく、世界の秩序を自らの欲求に沿って再構築するくらいの意気込みで頑張るのは有意義なことです。

さて、第2の視点です。デカルトが生まれてすぐの1600年にはコペルニクスの地動説を支持したイタリアのジョルダーノ・ブルーノが神への冒涜等の理由で火あぶりの刑にあっています。1633年には同じく地動説を支持したイタリアのガリレオ・ガリレイが異端審問にかかり終身刑を言い渡され、デカルトもあわてて自分の宇宙論の公刊を取りやめます。そして、デカルトがフランスで方法序説を書き上げたのが1637年です。

「運命よりむしろ自分に打ち克つように,世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように」くらいは言いたくもなるでしょう。本音を言っているのです。私はこれは処世術だとも敗北主義だとも思わない。自分の利益のために長い物に巻かれるのは格好悪いことかもしれません。しかし、デカルトの時間・空間(1600年ころの中部・南部ヨーロッパ)においてローマ教会に逆らうことは、正に命にかかわることだったのです。命のためなら、そして他者を大して傷つけることがないなら、自分の考えくらいいくらでも曲げればよい。一人になったときに、「それでも地球はまわる」とでも言えばよいのです。

他者を批判するときには、他者の時空を考慮しなければいけない。自分の立場でのみ物を考え、自分の考え以外の考えを軽視し排する姿勢は危険です。それぞれの時代のそれぞれの世界の人が、それぞれの事情を抱えている。そのことを自覚し、配慮できるのが大人です。

ということで、最初には言及しなかった第3の視点です。そもそも、周囲の世界とは独立して自分というものがあるのか、自分の欲望というものは誤解に過ぎないのではないかという疑問です。デカルトがいうように方法的懐疑が必要です。

自分探しの旅という言葉が流行った時期がありました。今ここにいる自分は本来の自分ではない、今の自分の役割は本来の自分にふさわしいものではない。世界のどこかには、本来の自分をそのまま認めてくれるところ、本来の自分が力を発揮できる場所があるはずだ。自分が変わるのではなく、その場所さえ見つければ、全てはうまくいくという発想です。バブルの時代でもあり、メディアでも主流派となり、多くの若者が職を転々として、そして世界中を渡り歩きました。でも、当然のことですが自分が変わることなく世界が変わるはずがない。結果論として、多くの日本の若者が、本来修行すべき年月を浪費してしまったと私は思います。

自分は世界との関係性の中にこそある。世界に対して有意に働きかけることによって自分が確立していく。有意の働きかけをするためには力がいる。運命を呪ったり、自分の至らなさを周りの環境のせいにすることなく、自分を鍛え変えていく。そういった営為の中にこそ世界を変える契機があると考えます。第3の視点の結論は、私が常日頃言っている老人の繰り言です。青年老い易く、学成り難し。附高生よ、勉強するのは、今、です。

では、またこのブログでお目にかかりましょう。お元気でお過ごしください。